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GPA Bangkok
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Vol. 11 1999年8月15日発行 |
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残暑お見舞い申し上げます。 今日は8月15日です。終戦(敗戦)記念日です。 54年前のこの日以来、日本は平和を享受してきました。しかし、ここタイ周辺ではインドシナの戦火が治まったのがわずか数年前のこと。南沙諸島やビルマ、スリランカ、印パなどでは今もきな臭い事件が起こっています。 タイから戦争と平和について考えてみました。 (M.K)
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「戦争と平和」などと大上段に構えましたが、ここで戦争論を開陳して「新ゴーマニズム宣言」などと張り合う気持ちは毛頭ありません。日本が平和を享受していた半世紀の余りの間にも戦火に翻弄されてきた人達の断片を拾ってみました。 ビルマの奥地には今も残留元日本兵の村があるとまことしやかに囁かれています。噂される場所は、ミャンマー軍事政権が外国人の入域を制限している地域なので、正確なことはわかっていません。幾たびも勇敢なジャーナリストたちが、タイ側国境などから潜行してその存在を確認しようと試みているらしいのですが、まだスクープを聞けないでいます。 幻の元日本兵村のことはさておき、インパール作戦に参加した日本兵で故国に帰還せずに現地にそのまま残った人は少なからずいます。50年以上前のことですから、すでに鬼籍に入った方が多いのですが、まだ御存命の方もいます。 残留元日本兵でチェンマイ近郊におられる藤田松吉さん、メーソットにおられる坂井勇さん、中野弥一郎さんたちにお会いしたことがあります。生い立ちや残留にいたる経緯、残留後の生きざまはそれぞれ異なっているのですが、共通しているのは日本人であることの宿命から逃れられないでいる、ということです。日本人であることを隠しつづけた時代も、逆に日本人であるということを強く意識せざるを得なかったといいます。 ガイチへ出征した台湾人日本兵、日本軍部に徴用されたアジア人ロームシャなどが故国に帰還せずに現地に残留しているケースもあります。映画「戦場にかける橋」のように連合軍捕虜の犠牲ばかりが強調されている「死の泰緬鉄道(タイとビルマを結ぶ鉄道)」ですが、マレーシア、インドネシアなどから集められたロームシャの犠牲者数のほうがはるかに多いようです。元憲兵隊通訳として泰緬鉄道の悲惨な現実を実際に目のあたりにした永瀬隆さんは、例年のようにカンチャナブリに贖罪の旅に出かけ、現地に残留するロームシャの故国への里帰りに尽力された、と聞きます。 アジアを歩いていて年輩の方と出会うと、ソニー、トヨタ、ホンダなど日本の物質文明の礼賛と戦争時代の話題が必ずといって良いくらい出てきます。タイ、ビルマ国境の山岳民族の村で、お年寄り達にボロボロの「軍票」を見せられ、オボロゲな「軍歌」を聞かされ、「突撃!」「気をつけ!」などの片言の「軍人用語」を反芻されるのは「戦争を知らない子供」の私としては日本軍の亡霊に出会ったようなものです。正直いって逃げ出したくなる気分です。しかし、50数年たっても日本といえば戦争の記憶と物質大国の印象しか彼らに残していないのは我々の世代の情けなさでもあります。 歴史の生き証人である彼らの余命のある内に、できるだけ話をお聞きしたいと謙虚に思っています。 近頃アメリカで1969年のウッドストック30周年記念のコンサートが開かれ、多くの観衆を集めたと聞きます。30年前の当時、泥沼化したベトナム戦争への厭戦感がアメリカに蔓延し、平和の象徴、ハトの足をかたどったラブピースなどのアクセサリーと反戦ソングが流行りました。そして、反戦、徴兵拒否、体制批判の音楽家、文化人、芸術家、学生、ヒッピーなどがウッドストックに集結して「真夏の夜の夢」的なコンサートを繰り広げたのです。1975年のサイゴン陥落でアメリカ側の終戦(敗戦ではない)宣言があり、ベトナムは南北統一しました。ベトナムに先立って、ラオス、カンボジアでも首都が陥落し、インドシナからアメリカ軍は撤退しました。 しかし今、アメリカは好戦的です。湾岸戦争や旧ユーゴ紛争にも主導して参戦しています。東西大国イデオロギーの代理戦争といわれたベトナム戦争時代と現在では国際情勢も異なっていますが、アメリカのベトナム戦争当時の厭戦感というものは何だったのでしょうか。 戦後二十数年たった今もインドシナ戦争のMIA(MISSING IN ACTION 行方不明米兵)問題はアメリカ国内の重大関心事です。確かに戦後50数年たっても残留元日本兵に我々が関心を示すように、アメリカ人はMIAに過剰な反応を示します。MIAが捕虜としてインドシナの僻地に生存している、と主張する人もいます。軍人遺族会、家族会などの圧力団体の力が強く、MIA調査に多大な国家予算が組まれています。米越国交回復後も両者の交流がスムーズに進まないのは、この軍人遺族会、家族会の圧力があるからだ、という話もあります。ベトナム戦争は、米兵が、米国民が、直接に犠牲を受けた最大の戦争だったのです。当時のアメリカの厭戦感の源はこの辺りにあるのではないか、と思います。ケニア、タンザニアの米大使館爆破事件の報復に、テロリスト、ラディンを匿うアフガニスタンに直接ミサイル攻撃を行う過剰さも、自国民が直接に犠牲になったからと推測します。湾岸戦争や旧ユーゴでもアメリカ兵の犠牲者が出てはいますが、ベトナム戦争の比ではありません。だから湾岸戦争や旧ユーゴでは厭戦気分にはならないようです。 カンボジア内戦で犠牲になった米国と日本のジャーナリストのものと思われる遺骨数体を村びとからの連絡をうけて写真に撮ったことがあります。射殺されて埋められたのを目撃した人もその近くに生存していて、ほぼ間違いなく彼らの遺骨だと考えられました。問題はどれが日本人で、どれがアメリカ人か、判らなかったことです。私が撮影してほどなくMIAの調査員が現地に到着して、厳重な撮影禁止のお触れを出しました。これらの骨はホノルルにある研究所でDNA検定などをして本人たちと同定したあと公表しますので、それまでの写真撮影や写真使用は差し控えて欲しいということでした。「日本人ジャーナリストの遺骨もありますが」と反論すると、「もし使われた写真がアメリカ人のものだったら、遺族を代弁してアメリカ合衆国があなたに名誉毀損、肖像権の訴訟をすることになりますが、それでも良かったらどうぞ」と脅されてしまいました。MIAミッションとはこんなに強固なものなのかと改めて恐れ入ったものです。 ちょっと比喩的な話をします。ハリウッドの西部劇で永い間インディアンが正義の主人公になることはできませんでした。累々とした屍はインディアンでなければ観客から拍手してもらえません。西部無法地帯の殺しあいのはかなさを訴えるときは、インディアンではなく開拓者(侵略者)の死が必要でした。ハリウッドの戦争映画で(日本人は当然のことアラブ人、セルビア人、、、、)ベトナム人が正義の主人公になったり、ベトナム人の屍が戦争の悲惨さを訴える表現手段になることは無いと言っていいでしょう。 ベトナム戦争時代にアメリカ兵とベトナム人の間にできたハーフたちはアメラシアンと呼ばれています(フィリピンの米軍基地周辺のハーフたちも同じくアメラシアン)。戦争終結後にベトナム人妻子とともにアメリカ本国に引き揚げた例よりも、妻子をベトナムに置いてきぼりにしたケースのほうが遥かに多かったようです。また父親が特定できずにアメラシアンを産み落とした娼婦たちや兵士にレイプされた上に不如意に子供を産んだ女性もいます。こうしたアメラシアンたちは青い目であったり、髪の毛の色がブラウンであったりして身体的特徴が顕著なので、戦後すぐに大きな問題になり、アメラシアンをアメリカが引き取る協定が結ばれました。アメラシアンの認定はもうほとんど終了しており、十数万人のアメラシアンがすでにアメリカの市民権を得ています。現在サイゴンのアメラシアン収容所に滞在している孤児たちは、アメリカ兵が父親であると立証できない子供たちです。外国の兵隊にレイプされてできた子供であるのは確実であるのだけれどもDNA検定はアメリカ人の特徴が出てこないケースもあります。ベトナム戦争にはタイや韓国なども派兵しています。彼らの子種であればアメリカ人の特徴が出てこないのは当り前ですが、母も子も犠牲者であることには違いありません。彼らはアメラシアン的優遇をアメリカ政府から受けられるように認定を求めています。そして戦闘や爆撃で親を失い孤児となった子供たちの数はアメラシアンよりも多いことは言うまでもありません。 ベトちゃん、ドクちゃんがアメリカのエージェントオレンジ(枯葉剤作戦)の犠牲者であることがマスコミに喧伝されて久しくなります。エージェントオレンジを展開した側の米兵や韓国兵にもその後遺症が表れています。しかし枯葉剤=ダイオキシンとの因果関係を立証するのに相当の時間を費やしています。その点アメラシアンは青い目、金髪、などの確たる証拠を突き付けられたのでアメリカ政府も即応せざるを得なかったのでしょう。 ちなみに日本軍の場合は、同じモンゴリアンなので身体的特徴が顕著では無く、表面化せずに産み捨てにされたケースが多いようです。しかし現地には忌まわしき記憶と「血」が残っています。そして現在もフィリピンのジャピーノなどの問題を作っています。 インドシナ紛争を考える時にクメールルージュを避けては通れません。クメールルージュによる1975年のカンボジア解放は何だったのか、を検証する動きが盛んです。ポト派の国際法廷問題もその一連の動きです。しかし主役とも言うべきポルポトが死んでしまったのは残念です。存命の内に彼の口から直接にいろんなことを確認したかったと思う人はたくさんいます。逆に彼に真実を話されると困るという人も多くいるはずです。ポルポトは死の直前に亡命もしくは投降を決意していたと噂されています。彼の死の2日前にもアメリカ政府はタイ、中国などにポルポトが亡命してきたら、亡命、投降を受け入れずに「逮捕」するようにと圧力をかけていました。 そんなことでポルポト毒殺説がまことしやかに流れるようになりました。ではだれがポルポトを毒殺したのか、いろんな推理が流布しています。 1、ポルポト派幹部犯人説 ポルポトひとりに責任を押し付けて自らの責任回避をした上で現政 権に投降するため 2、タイ、中国軍部暗殺説 ポト派支援の内幕を暴露されると困るから 3、シアヌーク(王室擁護派)犯人説 クメールルージュのカンボジア解放(1975年)直後、国境三派 連合時代などシアヌーク国王とポルポトが蜜月時代を過ごしたこと は幾度かあります。クメールルージュの力を暗に政治利用してきた のはシアヌーク本人です。ポルポトに対するシアヌークの発言も二 転三転しています。ポルポトがシアヌークとの密約のようなものを バラせば、国王の信望も失墜するかもしれない、、、 4、フンセン指令説 ポルポトが再びカンボジア政治の表舞台に(犯罪人としてでも)登 場してもっとも困るのはフンセン首相です。フンセン自身もクメー ルルージュの地方司令官であったことがあります。生殺与奪の権を 持っていたポト派投降志願者ポルポトは葬るべし、との暗殺指令が 出たとしても不思議ではありません。 5、CIA暗殺説 ポルポトに真実を語られて困るのはアメリカ政府も同じです。なぜイ ンドシナ紛争が起こったのかを一から掘り起こしてみれば、アメリカ とて正義面できないはずです。 6、、、、、誰か、ポルポトの死のミステリーに挑戦するジャーナリスト、 作家、TVマンはおられませんか。
カレン族独立の戦闘はミャンマー軍政とカレン族の間で1945年以来50年あまりも続いています。自ら銃を持ちカレン族の義勇兵として参加していた日本青年N君がマラリアで死にました。彼がなぜカレン軍に参加したのか、聞いたことがあります。「当初はカレン族に特に思い入れがあったわけでは無く、日本に青春をぶつける発露が無かったから、、、」とはにかみながら答えたのを覚えています。「それにしても銃を持たなくても、、、、」と懐疑的に接する私と一緒にビルマ国境のジャングルを1週間程歩いたことがあります。医療施設の無い山岳部を巡回するカレン人医師の移動診察をぜひとも自分の目で見て欲しい、という彼からの連絡で6ミリデジカムを持ちこみました。薬品類も彼の交渉で日本から送られてきたものでした。 彼の生き方の是非はともかくとして、彼の有り余るエネルギーの発露になっていたことは事実です。彼がマラリアで死んでしまって、件の6ミリを家族に渡そうか、それとも彼の遺志通りにカレン族の困窮する医療事情を世に伝えるために追加取材していこうか、と悩んでいます。 百人百様の戦争体験があると思います。百地百様の戦況もあります。南沙諸島、スリランカ、印パ、、、、見知っている話だけでも語り始めれば紙面が尽きません。とりあえずここで筆をおきます。 犠牲者に黙祷を捧げます。合掌。 |
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8月5〜15日 世界音楽舞踊祭(タイ文化センター) 8月29日 ソンクラ−国際マラソン(ソンクラ−県) 9月4〜5日 ピチット、ボートレース(ピチット県) 9月7〜11日 ウンプラダムナム祭(ペチャブン県) 9月18〜19日 ピサヌローク、ボートレース(ピサヌローク県) 9月21〜25日 ボートレース、ナラティワット、鳥の鳴き声コンテスト |
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