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7月4日夜。スーパーの買い物袋を下げてスクムビット・ソイ26付近の歩道を歩いていると、黒山の人だかりに行く手を遮られてしまいました。いったい何事かと強引に人波をかきわけていくと、フロントガラスとリアガラスの割れた丸目のベンツが歩道のど真ん中に乗り上げていました。運転席には、引きつけを起こして両手をぶるぶると震わせた育ちのよさそうな若者が座っています。事故?ならば早く助け出してあげないと!。最初はハンドル操作を誤ったベンツが乗り上げただけかと思ったのですが、ベンツは車道と並行に、並木の内側へ回り込むように停まっています。まるで歩道の上を暴走してきたかのようです。事故現場のすぐそばには、ハザードランプを点滅させた路線バスが横付けされていました。客はすべて降ろされており、頭から血を流した運転手のような人がしきりに何かレスキュー隊に訴えています。ベンツとバスの接触事故なのでしょうか? 事故を目撃したらしい食堂のおばさんが、興奮した面持ちで周りの人に何やら説明していました。そばに行って耳をそばだてると「チョック・トイ・カン (殴り合いの喧嘩になって!」、「かわいそうに、あの女性はきっと助からないね」、「すごい番号だ。いったいどこの政治家の息子やら」と言った話し声が聞こえてきます。確かにベンツのナンバーはこれみよがしなゾロ目でした。殴り合いと聞いてますますどんな状況だったのかわからなくなってしまったのですが、運転席の若者がとんでもない事故を起こしたことは間違いなさそうです。やがてその若者はレスキュー隊に助け出され、なぜか周りの人から罵声を浴びせられて病院へ運ばれていきました。
![]() 翌朝、この事故を一面トップで報じた「デイリーニュース」の記事内容は驚くべきものでした。まずは路線バスにニアミスされたベンツの若者がソイ26の交番に訴え出て警官ともどもバスを待ち伏せ、降りてきたバスの運転手との間で「かすった、かすらない」の言い合いが始まります。警官が接触箇所を点検している際に両者の口論が過熱し、キレた若者が小石で運転手の額を殴打。ここで何人かの市民が運転手側に加勢してもみ合いとなったため若者はさらに逆上し、ベンツの運転席にとって返すと、あろうことか歩道の群衆目がけて車で突っ込んでいったのです。ベンツは十人ほどをはね飛ばし、三人の女性が車の下敷きになりました。周りの人がすぐに三人を助け出そうとしましたが、若者は興奮と恐怖で引きつけを起こして車を後退させることができず、外にも出てきません。これに怒り狂った市民はベンツのフロントガラスとリアガラスをたたき割り、さらには運転席の若者に暴行を加えて引きずり出そうとしました。ここで警官が制止に入り、下敷きになった三人は救出されて病院に運ばれました。 私が事故現場を通りがかったのはこの直後だったようです。ベンツのフロントガラスが割れていたのは一般市民の鉄拳制裁によるもので、若者は殺気立つ群衆への恐怖におののいていたわけです。そして、事故を目撃した食堂のおばさんの予言通り、下敷きになった三人のうちの一人、バスの集金係である42歳の女性がその後病院で死亡しました。事故の詳細を知って、遅まきながらまったく他人事でない気がしてきました。スーパーをあと十分早く出て問題の口論に遭遇し、野次馬根性丸出しで首を突っ込んでいたら、私もベンツに吹っ飛ばされていたかもしれないのです。
この事件は、加害者である若者(カンピタック・パッチムサワット容疑者、20歳)の母親が元ミスタイランド、おじが元警察庁副長官であった上、実業家の父親が「息子に暴行を加えた無教養な連中を訴えてやる」「息子はあまりレベルの低い人たちと接したことがなかった」などと発言したことで上流家庭VS一般庶民という構図が強まり、極上のワイドショーネタとしてセンセーショナルに報じられることになりました。 タイでは富裕層が一般市民に対する致死事故を起こしても罪に問われることはほとんどありません。金の力がものを言う上、過失に対してあまり厳しい裁きを下しても仕方がないという考え方が根付いているからです。高級車に乗った芸能人が市民をひき殺す事故もよく起きますが、謝罪と補償をした上で頭を丸めて出家すれば、すぐに芸能界に戻ってくることができます。しかし、今回の事件はかなり事情が違います。車で人混みの中に突っ込んでいったのは明らかな殺人行為です。大勢の目の前で起きた事件ですから証人は大勢いるでしょうし、父親は息子が精神科で治療を受けていたと主張していますが、運転席にいたのはどうみても責任能力のありそうな立派な若者でした。年齢は二十歳。そう簡単に言い逃れはできないはずです。 さらに今回の事件では、加害者が一部の市民から暴行を受けています。タイでは犯罪者が一般市民に取り押さえられると、その場でリンチ(プラチャータン)を受けることがよくありますが(エラワンの祠を壊した男が周りの人に暴行を受けて殺された昨年3月の事件がいい例です)、こうしたリンチは下着泥棒だとか痴漢だとかとるに足らない不届き者に下されることが多く、富裕層や権力者がその対象になることはめったにありません。ところが今回の一件では、ゾロ目ベンツに乗ったいかにもという実力者の息子に市民の鉄拳制裁が飛びました。これはよほどのことで、加害者の態度・行為がいかに目に余るものであったかを物語っています。市民の怒りがそう簡単に収まることはないでしょう。 暴言を吐いて事態を悪化させてしまった父親に対し、元ミスタイランドの母親は少しでも息子の立場を改善させようと、死亡した女性の遺族やケガをした被害者への謝罪に奔走し、それなりの同情を集めているようです。はたしてこの事件は、いったいどのような結末を迎えるのでしょう。これまでに政治家や実力者の息子が起こしてきた幾多の犯罪と同じように、時間とともに風化してうやむやにされてしまうのでしょうか。それとも司法が市民の憤りをしっかり受け止め、しかるべき裁きが下されることになるのでしょうか。偶然現場に居合わせてしまった事故のことですから、その後の経過は注視していこうと思っています。
事故の翌日にスクムビット通りを歩いているとき、そういえばあの事故は、この歩道にガードレールというものがあれば起きなかったのではないか、少なくとも死者が出ることはなかったのではないかという思いがよぎりました。バンコクではたまに車道と歩道の間に鉄柵が設置されていますが、ガードレールというものはあまり見かけません。二年前に登場して以来、人が使っているのを一度として見たことのない呼び出し機つきのタクシースタンド。あんなものを作るくらいなら、歩行者の安全を守るため、一部だけでもガードレールを設置してはどうかという気もします。あったらあったで、道が渡りにくくなると不満の声が出てくるのかもしれませんが。
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Vol.48の内容
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