真昼の情事
マユミ(32歳)が夫・浩一(35歳)につきまとう女性の影を確実に知ったのは2週間ほど前の事だった。浩一が部屋に置き忘れた携帯電話にかけてきた、そのタイ人女性は片言の日本語を話す、世間で言うところの「タニヤのホステスさん」のようだった。
タイに駐在となり2年。メーカーの営業マンである浩一は、朝食もそこそこに出勤し、残業や接待で帰宅は夜遅い。休日も接待ゴルフや出張で不在の日が多い。「日本人駐在員男性の2人に1人はタイに来ると浮気してるよ」という周囲の声に、常に「うちの主人に限って、そんな事はないわ。」と思ってきたマユミゆえに、悲しみと同じくらい怒りも大きかった。そして、昨夜は、ついに、その事で浩一と大喧嘩をしてしまった。
この2年間、マユミは良き駐在員の奥様である事に徹してきた。好む好まないに関係なく、ここにいる間はパートで働く事はできず、先輩奥様たちとのおつきあいで習い事やランチをし、世間からは「働かないのに贅沢できて」と言われ、一方で、接待も含めた仕事で多忙な夫の帰宅を待つだけの毎日。片言のタイ語は覚えたものの、自由に外出できるほど、この街に慣れているわけではなく、狭い行動範囲の中での人間関係は駐在員社会の延長であり、マユミにとっては、退屈で、窮屈で、「早く日本に帰りたい」と思うばかりの駐在生活だった。浩一との喧嘩も、そういった日々のストレスに、そんなマユミの気持ちに理解を示してくれない浩一への不満が、例の女性の事で爆発してしまったのだろう。
「これから、どうしようかな・・・」と、とりとめもない気持ちでマユミは外に出た。外出の目的はない。ただ、1人で部屋にいるのが嫌だったから、外出した。気持ちとは裏腹にお洒落をして、しかし、呆然とした顔で、ぼんやりと歩いて行くと、通りの向こうから「奥さん!どこ行くの?」と元気な声が投げかけられた。
このソイ(路地)にいるシーロー(乗り合いタクシー)の運転手、ノイ(28歳)だった。ゴリラーマンのような顔にくったくのない笑顔をうかべて、シーローに乗って行けと合図している。ノイに限らず、この辺のシーローの運転手はマユミ達、駐妻にとっては友達のような感じであり、ベテラン奥様ともなると、携帯電話の番号を教えあって、おかかえ運転手状態のおつきあいをしている人も少なくない。
ふとマユミは、「誰でもいいから、話しを聞いてほしい。」と思った。奥様仲間には話せない。すぐに噂になって広まってしまう。その点、このシーローの運転手ならば差し障りがない。今は、誰かに話しを聞いてもらって、そうしたら、少しは気持ちが軽くなる。気持ちが軽くなって、冷静になって考えれば、なんとなく道も開けるんじゃないか。そんなふうにマユミは思った。
「ねえ、ノイさん。適当に乗車賃払うから、とりあえず走りながら、私の話しを聞いてくれる?」「べつ。に構わないけど、どうしたの?奥さん、元気ないんじゃないの?」
少々、怪訝な顔をしながらも、ノイはアクセルを踏んだ。
スクムビットロードの中のソイを数え切れない程曲がった。言われたとうりにシーローを運転するノイにマユミは助手席から、片言のタイ語に英単語をまじえて、とりとめもなく話しかけた。ノイは「うん、うん。」と、うなずきながら、時折、タイ語で、時には勉強中の日本語で「そうだね。」「僕もそう思う。」と合いづちをうつ。日頃、挨拶くらいしか交わした事のないノイに、マユミは自分でも驚く程、たくさんの事を話した。それ程、マユミは、心の中に重荷を背負っていたのだろう。・・・浩一の浮気を許せないと思った事。駐妻としての生活のストレス。タイに住んで不便でイヤだった事。日本に帰りたいと思う事。そして、こんな悩みを話せる相手がいない事。・・・スクムビットの外れまで来た時にノイがシーローを停めた。そして「奥さん、そこでラーメン食べない?もうお昼だよ。」と言った。気がつくと1時間以上たっていた。さらに気がつくと、昨夜から何も食べていないマユミは久しぶりの空腹感を覚えていた。・・・・「奥さん、大変だねぇ。」と笑いながら、屋台のラーメンをかきこむノイ。食べ終わると、さっさと2人分のラーメン代を払い。「奥さん、今日は僕がおごるよ。元気だせよ。さぁ、マンションまで送って行くから、帰ろう。」
道すがら、ノイは言った、「奥さん、元気だせよ。僕でよかったら、いつでも話し聞くからさ。あまり思いつめない方がいいよ。サバーイサバーイにしてさ。」マユミは嬉しかった。実際、心が軽くなった。深い意味はなく、今日のノイに感謝をしている。
その日をきっかけに、マユミは浩一と何かあるたびにノイに会うようになった。浩一とは口論する事もあれば、顔を合わせてもお互い黙ったまま、口をきかない事もあった。そんな翌日、マユミは浩一を送り出し、長男の翔太(4歳)を幼稚園に送って行った後、ノイを会った。ノイと話すと落ち着く。ノイと会うと、浩一に素直に「ごめんなさいね。」と謝れる。
いつの頃からか、マユミは、浩一と口論した翌日はノイとホテルに行くようになった。何もなかったような顔をして、翔太をお迎えに行き、スーパーで買い物をして帰宅する。ずるずると泥沼に足を突っ込むように、マユミとノイの関係はエスカレートしていった。
今のマユミには、浩一との事も、駐妻としての生活のストレスもなかった。憂鬱だった日々から救い上げてくれたノイと過ごす時間がマユミの全てを満たしてくれていた。
それから半年が過ぎた。久しぶりに浩一が自宅にいる日曜日だった。マユミの携帯が鳴り、30分後に着飾ったマユミが玄関へ向かった。居間でビデオを見ている浩一に、「ちょっとお友達と会わなくちゃならなくなったから出かけてくるわ。浩一さん、翔ちゃんといっしょに適当にお昼御飯食べておいてね。」と言うと、浩一は「うん」と背中でうなづいた。
この半年、マユミがとても綺麗になり、どこか落ち着きがない事は、浩一も気づいているだろう。マユミにもそれはわかっている。「でも、タイにいる限り、私にはノイさんが必要なの。家庭を壊さない為に、私は納得しているつもりよ。日本へ帰ったら、ちゃんとやりなおせるわよ。」マユミは心の中で自分自身にそう言いながら、約束の場所へと足を速めた。
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